category:allusion

暗示引用 (allusion)

以前のリビジョンの文書です


暗示引用

Hypernyms 引喩, 引用, 引用法
Synonyms 引喩, 間接引用, allusion
Hyponym
Definition
  • 暗示引用 (allusion) は、それと明記することなく、諺や名言、他の作品、周知の事件などを示唆する表現法 (佐藤 et al. 2006: 543)。
  • 著名な原表現を連想する契機を言語的に用意する表現法。表の言術に別の作品の影をちらつかせて、文意や映像の二重性を誘う趣向のこと。著名な原表現を連想する契機を言語的に用意することにより、表面上の意味を通しながら、バックに別の映像をフラッシュのように流す表現技法。(「体系」6章(抄))
  • 著名な原表現を連想する契機を言語的に用意する修辞技法。〔多重〕の原理に立つ●文彩の一つ。著名な原表現をそのまま引用するのではなく、それを連想する契機となるような言語表現を用意することにより、表面上の意味がひととおり通るようにしながら、同時にその裏に別の映像をフラッシュのように流す修辞技法。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • それとなく引用して言華を開く離れ業/<B>初めに複数の言辞を並べ、表立った意味を示した上で、その奥に隠された裏の意味を暗示でさとらせる技法を〈暗示引用〉と称する。</B>(「文彩百遊」[第八章 多重の文彩技法 [文彩72]隠句暗示(いんくあんじ)……隠句法/暗示引用])
  • 引用は,自己が展開する論考に他人の成果を活用する行為であり,その際には出典の明記が義務づけられる。これに対して暗示引用は,多くの生活者がすでに共有している認識を,出典は示さずに他の局面に応用することによって,注目と関心を集めようと試みる(「広告プランニング」[[第Ⅱ部 広告レトリックの実践]][第7章 表現の修辞学Ⅰ:その体系]〔3 思考様式の修辞法〕)
  • 引用であることを示し、出典その他を特にこだわらない引用(「体系」7章(抄))
  • 引用であることを示すだけで,その出所などを特にことわらないレベルで他の言を引く修辞技法——《●引用法》のうち、何からの引用であるかを明確に示す《●明示引用》とは違って、引用であることを示すだけで、それに関する細部の情報を明かさない修辞技法。広く《●暗示引用》などをも含める場合もあるが、修辞的言語操作の手段を純粋にとらえるため、ここでは、出所その他に関して特にことわらない引用という範囲に限定してこの語を用いる。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • 明らさまに断らずして古語古事を自家の文中に編み込むものである。此の法は引用法を煎じ詰めたもので、二者の関係は隠喩対直喩の関係に似ている。(「近代日本修辞学史」[第16章 五十嵐力『文章講話』ほか 二、『新文章講話』]【6】(21))
  • 著名な事蹟・典故或いは古人の文辭などをを引き、文品を飾り文種を飾り富ますこと。(「研究社英語学辞典(増訂版)」][p.53][allusion][修)
  • ●文彩にはこのように、すでにある「よく知られている対象」を踏まえて、それにおんぶするものがある。「よく知られている対象」とはさまざまなものが考えられる。●成句、●名句、●格言、●諺、詩歌、神話、物語…、小説などの言乱的世界ばかりでなく、時事、社会、歴史などの人事・文化の百般にわたる、レトリックでいうところの「●引喩」(allusion*=暗示的言及)だ。旧情報をうまく利用する、言葉の工夫である。([野内入門 第二部 修辞的説得 第4章 提喩系列の文彩と換喩系列の文彩 1 提喩系列の文彩(類似性を原理とする)])
  • 引喩は「よく知られている対象」を暗に踏まえながら話を展開する文彩である(「暗示引用法」と呼んだほうが分かりやすいが、ここでは定訳に従う)。(「日本語修辞辞典」)
  • 引喩は引用の特殊なケースである。「よく知られている対象」(旧情報)を暗に踏まえながら表現する言葉の工夫だ。引喩というよりは「暗示的引用」(ほのめかし)と呼んだほうが実態に則するかもしれない。(「日本語文例集」【レトリック小辞典】)
  • ●成句、●諺、●名言、有名な詩歌、よく知られた文章の一節などに託して新しい意味を伝える修辞技法。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • 引用すること。(「別冊宝島レトリックの本」)
  • 有名な一節を暗に引用しながら独自の意味を加えることによって、重層的な意味をかもし出す法。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[レトリック三〇早見表])
  • 引用による比喩を引喩(いんゆ)といいます。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[意味のレトリック 引用で語る 構成のレトリック2])
  • 暗示とは、聞き手や読み手にとって既知と見なされた、故事・文章・演説・歴史的事件・ニュース・劇の台詞・慣用句などへ暗黙裡に言及する表現の手法である。(「新修辞学」)
  • 「よく知られた話題」を踏まえて、それにおんぶする形で表現効果を高めるテクニックだ。つまり旧情報をうまく利用する、「ほのめかし」を武器とする言葉の工夫で、●地口や●パロディーにも通じる。(「レトリックと認識」)
  • ●引喩は英語のallusionに相当する喩法で,古人の言や●成語・●格言・●ことわざ,あるいは人口に膾炙した詩歌や句など,他人のことばを引いて自分の文章を飾り,趣を添えようとする技巧である。(「比喩表現の理論と分類」[[第1部 比喩論 第1編 比喩の関する基礎的考察]][第2章 比喩法の種類]【第1節 修辞学上の各種の比喩法】〔第7段 引喩〕)
  • ●引喩(allusion)は「古人の言や成語・格言・ことわざ、あるいは人口に膾炙した詩歌や句など、他人のことばを引いて自分の文章を飾り、趣を添えようとする技巧」(中村)である(略)。(「メタファーの心理学」[第1章(芳賀淳)])
  • 昔から知られている古典の中の章句、有名人のコトバ、格言、自分が感動した一節などを引用して、自分の文章に権威をそえたり、内容に変化を持たせたりする方法です。●引喩法という人もいます。(「文章の書き方百科」[第三部 効果的な書き方 〔四〕修辞法 3 現代の修辞法の特色]【1 文の表現の修辞法】〔(8)引用法(allusion)〕)
  • 表現効果を高めるために,世人によく知られた文句や著名な作品の文句を,それとなく取り入れて表現する修辞法(「現代言語学辞典」)
  • 過去のよく知られた発言、人物、歴史、小説などに言及すること。(「レトリック論を学ぶ人のために」[Ⅲ コミュニケーションとレトリック 第5章 コミュニケーション論からのアプローチ(鈴木健) 4 公的なコミュニケーションとレトリック])
  • 「よく知られた対象」を踏まえた表現で、●地口(しぐち)や●パロディーと同じく「ほのめかし」を武器とする旧情報依存型の言葉の工夫。(「うまい!日本語を書く12の技術」[附録 〈文彩小辞典〉]【引喩(暗示的言及)】)
  • 引喩allusionとはなんらかの歴史的,神話的,文学的事実の引用である(「詩的言語学入門」[Ⅴ.文法的手段の情報性])
  • 古人の言葉、故事、詩歌の引用です。(「新版 書く技術」[第5章 達意の文章])
  • ●比喩の道具として先行作品を使うこと(「ミステリを書く!10のステップ」[付録二 隠喩(アリュージョン)講義])
Features
  • 影を漂わせる手段は、原作品の発想であったり、イメージであったり、単語であったり、一定ではないが、ともかく、その二重性に気づくだけの教養や常識をそなえた読者を得て、はじめてその表現効果が発揮される。(「体系」6章(抄))
  • 改行や引用符などによって引用範囲を限定していないだけでなく、それが引用であるということさえ示さず、原作の題もその作者の名も伏せてあり、まったく引用という形式をふんでいないが、暗示することで実質的に引用と似た表現効果をあげる。その際に影を添わせる手段は、原作品の発想である場合もあり、そのイメージである場合もあり、その中の特定の語句である場合もあって一定ではない。/が、いずれにせよ、そういう表裏の二重性に気づくだけの予備知識や教養や常識などをそなえた読者を得て、はじめてその伝達効果が発揮できる。したがって、一般読者を想定した文章の場合、文面に透かしとして潜ませることばは、だれでも知っている事柄、あるいは、世の中に広く知られた作品の有名ない節である必要がある。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • さらりと、それとなく流すのがコツだ。(「文彩百遊」[第八章 多重の文彩技法 [文彩72]隠句暗示(いんくあんじ)……隠句法/暗示引用])
  • 多くの場合何かに言及してゐることが文面に明示されてゐないものをいう。(「研究社英語学辞典(増訂版)」][p.53][allusion][修)
  • ところで「よく知られている対象」とはさまざまなものが考えられる。成句、名句、格言、諺、詩歌、神話、物語、小説などの言語的世界ばかりでなく、時事、社会、歴史などの人事・文化の百般に渡る。先に分類の無益さを云々したゆえんだ。——「創造」と呼びならわされた行為は実は伝統との対話ではなかったのか。自由な「引用」ではなかったのか。テクストはあまたのプレテクスト〔前‐テクスト=口実〕を織りあげた「引用の織物」(宮川淳)と考えるべきなのではないか。。シュリア・クリステヴァの「相互テクスト性」も別のことを言っているわけではあるまい。「すべてのテクストは引用の寄せ木細工のように〔として〕自己を組み立てる。すべてのテクストは他のテクストの吸収・変形である。」(「語、対話、小説」)「テクストはテクスト間の相互の置換、相互テクスト性である。一つのテクスト空間のなかで、他の諸々のテクストから借用された幾多の言表が交錯し、中和する。」(「テクスト構造化の諸問題」)/議論が少々理屈っぼくなってしまったかもしれないが、別に複雑なことを.言っているわけではない。文学を話題にしたので難しそうに聞こえるが、日常的言語行為に置き直して考えてみれぽすぐに腑に落ちることなのだ。/試みに幼児の言語習得の過程を思い描いてみよう。幼児は母親の言葉を真似る。それは母親の言葉の「引用」である。幼児は母親の言葉を盗んでいるのだと言ってもよい。しかしこの引用は一方的な行為ではないことに注意しなけれぽならない。引用の仕方が悪いと母親のチェックを受ける。引用とそのチェック、この二つのプロセスを繰り返しながら幼児は言語能力を高め、言語を習得してゆく……。/私たちの日常の発話は手垢にまみれた「●常套句」からなっている。私たちは他人がすでに使った言葉を引用しながら、自分の思いを表現する。ほとんどの場合はそれで十分に用が足りる。コミュニケーションにトラブルが生じたとき、あるいはコミュニケーションをより豊かに高めようとするとき、相手の反応に応えながら「引用の仕方」に工夫を凝らす。これが恐らくレトリックの萌芽だろう。してみれば●引喩はわれわれ人間の言語活動の基本的要請に応える●文彩だということになるだろう。(「野内辞典」「野内入門」)
  • 予備知識を必要とするので、この●文彩はちょっぴり知的だ。「よく知られた対象」が分からないと、その面白さが少しも伝わってこないということになる。([野内入門 第二部 修辞的説得 第4章 提喩系列の文彩と換喩系列の文彩 1 提喩系列の文彩(類似性を原理とする)])
  • 旧情報をうまく利用する言葉の工夫だ。要するに地口やパロディーと同じく「ほのめかし」を武器としている。「よく知られた対象」にはさまざまなものが考えられる。●成句、●名句、●格言、●諺、詩歌、神話、物語、小説などの言語的世界ばかりでなく、時事、社会、歴史などの人事・文化の百般に亘る。予備知識が求められるので、この文彩はちょっぴり知的だ。「よく知られた対象」が分からないとその面白さがちっとも伝わってこない。(「日本語修辞辞典」)
  • この文彩は読者の知識(教養)を前提(当て)にしている。「よく知られた対象」にはさまざまなものが考えられる。成句、名句、格言、諺、詩歌、神話、物語、小説などの言語作品ぼかりでなく、時事、社会、歴史などの人事・文化の百般に及ぶ。予備知識が求められるぶん、知的な文彩である。(「日本語文例集」【レトリック小辞典】)
  • ほのめかされる対象としては、そのような言語表現以外にも、神話、歴史、伝統行事、時事問題など幅広く利用可能である。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • 権威づけのために古典などから引用することが多い。典拠を明示する型と暗示する型がある。(「別冊宝島レトリックの本」)
  • ●引喩の本質は、よく知られた原典(詩歌や文章や●ことわざなど)に託していまの気持ちを述べることにあります。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[意味のレトリック 引用で語る 構成のレトリック2])
  • 自分の表現に他人の言い回しや常套句を間接的に持ち込んで聞き手をからかい自分も楽しむやり方、これがこの種の文彩の典型に近いものであった。——間接的に言及されるものとは精確には何なのか(たとえば、歴史的出来事と文章は違うカテゴリーに属している)。また、聞き手や読み手が事実上知らないものを暗示してもかまわないが、名高いものごとや表現だけに言及を限るのは不都合である。——暗示は●アイロニーや●隠喩と並ぶひとつの文彩ではなく、レトリカルな言語使用の原理と見なすべきである。暗示問題の中心には〈引用〉がある。基本的にあらゆる表現の深部にはすでに引用が機能している。語彙や統辞法は公共のものにすぎないからだ。言いかえれば、どんなに独自な表現といえども、どこかしら模倣の要素をともなわぬものはない。/〈引用表現〉と〈引用対象〉とに因果関係があるとは限らない。たとえば誰かの事実上の発言ではないが、いかにも当人が口にしそうな言葉を暗示するケースがある。また〈引用対象〉と〈引用源泉〉とは区別すべきである(伝統的に直接引用と呼ばれるタイプには〈引用源泉〉がある)。その他の問題を含め、「引用の理論」はまだ十分開発されていないのが現状である。(「新修辞学」)
  • ●引喩は予備知識を必要とするのでちょっぴり知的な言葉の工夫だ。しかしながらと言うべきか、それだけにと言うべきか、仕掛けを見破った人間には楽しみが倍になる、そんな奥の深いテクニックである。——●引喩を文学的技法に高めたのが和歌の「●本歌取り」である。しかし●引喩は単に表現の次元だけでなくもっと大きく時代とか文化とか伝統に対して暗示的に言及することがある。そのとき●引喩は批評精神を体現することになる。文章(テクスト)に社会が読み込まれることになる。ジュリア・クリステヴァの「相互テクスト性」も別のことを言っているわけではないだろう。「すべてのテクストは引用の寄せ木細工のように[として]自己を組み立てる。すべてのテクストは他のテクストの吸収・変形である。」(「語、対話、小説」)「これまでの、あるいは同時代の文学的資料を読みつつ書くという方法によって作者は歴史のなかに生きる、そして社会がテクストのなかに書き込まれる。」(「パラグラムの記号学のために」)(「レトリックと認識」)
  • ●諷喩と●引喩は、比較される2つのものの一方がすでに知られていることばという点に特徴がある。(「メタファーの心理学」[第1章(芳賀淳)])
  • ●引喩・●洒落は質のいものも悪いのも、下敷きにして模倣している点で●反復の行為なのである。(「くりかえしの文法」[第1章 反復の普遍性])
  • 大宅壮一は、さきに引用した文章で、外国人の文句を引用するのは知的装身具のつもりだとして、つぎのように書いています。/この間も或る座談会で日本人はどうしてこうもフランス文学が好きなのであろうかということが話題になった。そして結局、フランスの作家の書いたものは小説でも随筆でも短かい気のきいた文句、「珠玉のような」言葉がやたらに出てきて、それが日本の知識人および準知識人をひきつけるものだという結論に到達した。そういう名文句を文章や手紙に引用したり会話の中にまぜこんだりすると、いかにも高い教養がありそうに見える。それが日本人には知的装身具、いわばアクセサリーの一種のように重宝がられているのだ。(「文章の書き方百科」[第五部 いろいろな文章の書き方 〔一〕描写的・記録的な文章 21 引用のしかた])
  • 簡にして要を得た表現となるため,聞き手や読み手に訴える力は,多くの語を用いて説明するよりも強い(「現代言語学辞典」)
  • この引用は原典を直接指摘しない.作者は,事実そのものは知られたものと考えられるので,こうした引用はコミュニケーションの過程で容易に解読されるものと期待する.しかし,実際には引用の対象そのものがしばしば複雑な,多面的現象であり,この現象のすべての側面がメッセージの構成成分として援用されるわけではないために,コード解読の過程は,しばしば,困難になる.——●引喩allusion(この詩における主要な手法)も,本質的には,意味次元でのパラレリズムである.内容の1つの次元(主要な次元)は作者の状態,「天のうつろに向けて放たれる彼女の声」であり,第2の次元はカルロの助けを呼ぶ角笛の響きである.第2の次元は,第1の次元の意味をはっきり浮かび上らせるための,いわば,背景になっている.しかしこの背景は,それ独自の意味をもっている.そしてこの意味は第1の意味に対して無関係ではないことが分かる.ここでも,2つの独立のテーマが単一の意味的全体へと融合するという特異な対位法が存在するのである.第2の次元から引き出される追加的メッセージの1つは,「呼び声」が聞かれたときにはもう手遅れだ,ということである.第2のメッセージは,作老の詩はロランの角笛のように魔法の性能を持っているということである.第3のメッセージは,ただ選ばれたものだけがこの呼び声を聞く(理解する)ことができる,ということである,等々./この詩における●引喩の手法によって惹き起こされる別の暗示的メッセージも可能である.しかし,ここでの我々の課題は,手法そのものが追加的情報の形式を決定する可能性を持つという指摘のみにかぎられる.(「詩的言語学入門」[Ⅴ.文法的手段の情報性])
  • 剽窃(ひようせつ)、焼き直しの場合もあります。(「新版 書く技術」[第5章 達意の文章])
  • ●引喩(アリュージョン)とは、そうしたクローズド・サークルにおける高級な遊戯ともいえよう。これを駆使する者は、読者が暗示引用される文献に親しんでいるという「共同体」をあてにすることができる。(「ミステリを書く!10のステップ」[付録二 隠喩(アリュージョン)講義])
Functions
  • 引用という形式をふまずに、実質的には引用に似た効果をあげる。(「体系」6章(抄))
  • 表の言述に別の作品の影をちらつかせて、文意の二重性、あるいは、読者が頭に思い浮かべる映像の二重性を誘う趣向である。——さらに、常識というものが多様化すれば、同じ時代であっても通じにくくなる。共通の教養が期待されていた中世の知的階級における《●本歌取り》は、映像の二重性それ自体がその一首の趣向として文学的価値を生み出したが、今ではそのような期待は薄い。現代は《●暗示引用》というこの種の修辞技法が効果を奏することの困難な時代であるように思われる。文面に巧みに仕掛けたことばのヒントを手がかりに、読者が文章の奥に潜んでいるものの正体を暴く、そういう謎解きに似た興味が中心となった現在、この技法はわかる人にはわかるといった優越感を伴う、いわば●隠語めいた陰湿な楽しみと化した感がある。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • このような《●暗示引用》は、通じれば微笑を誘う可能性が高い。(「文章読本笑いのセンス」[第二章 笑いのレトリック]【第九節 パロディー・洒落など】)
  • 繰り返しがきかないグラフィック広告ではとりわけ,一瞬のうちにオーディエンスの注日を掴み取ることが至ヒ命題となるから,この働きは大きい、,また,注目効果を高めるためには,《プール冷えてます》がそうであったように,ヴィジュアルもまた暗示引用として構成される工夫が有効である。(「レトリック 学びのエクササイズ」)
  • 牧口の「友がみな…」のように、ほとんど完全にもたれかかって自分の気持ちを表してもいいのです。独創性を主張するかどうかは、また別な問題でしょう。「託して語る」ことによって、現在のもろもろの細部がそぎ落とされて、ひとつの類型として事態をとらえることができます。困難に直面したときに、理解をえる方法のひとつだといえるでしょう。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[意味のレトリック 引用で語る 構成のレトリック2])
  • 物知りぶって特殊な本から引用しますと、読み手にわからなかったり、読み手の反感をまねいたりすることになります。(「文章の書き方百科」[第三部 効果的な書き方 〔四〕修辞法 3 現代の修辞法の特色]【1 文の表現の修辞法】〔(8)引用法(allusion)〕)
  • いうまでもなく、●引喩(アリュージョン)の選別化作用には、もっと否定的な側面もある。何でもそうだが、衰弱して用いられた場合である。『レトリック認識』の一節を借りれば、こういうことだ。/《パロディが、ことばの意味を重層化し豊富化する遊びとしてではなく、仲間うちだけの意味のくすぐりあいとして機能しはじめることがある。衰弱したパロディは、その排除的な選別作用のせいで、環境と世代を小さく区切った閉鎖的な小世間を編成し、なれあいの目くばせともなりかねない》/低レベルの批評がジャンル全体のレベルをもおとしめてしまう方向に作用する、と理解されるべきだろう。(「ミステリを書く!10のステップ」[付録二 隠喩(アリュージョン)講義])
  • 一首の趣向として用いると●本歌取りとなる。また●明示引用、●隠引法も参照。(「体系」6章(抄))
  • 〔対立〕明示引用、〔関連〕隠引法、[関連]●映原・●パロディー・●文体模倣・●翻案・●模擬・●模作(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • ●暗示引用や、●引用法・●パロディー・●類装法・●洒落(「日本語の文体(中村)」[《文体論の原理》 Ⅲ 文体論の構想――ことばの奥に響く対話―― 2 文体分析の表現的基盤])
  • 引用の仕方に風刺や批判の趣向を加えると,「パロディ」になる。パロディの中で特定作品の画風や文体の模写に特化したものを「パスティシュ」と呼ぶこともある。(「レトリック 学びのエクササイズ」)
  • ●明示引用も参照。(「体系」7章(抄))
  • 対立〕明示引用

▽ALLUSION [対立]●明示引用 [関連]●暗示引用・●引用法(「日本語の文体・レトリック辞典」)

  • 「allusion」というレトリック用語が相当する。

「謂はゆる換骨、脱胎、洗臓、剽窃、襲踏、焼直、等も亦、いつれも隠引法に関連したものといはれる。」と。そうすると、「mimesis」とか「pastiche」というものにも相当するようである。(「近代日本修辞学史」[第16章 五十嵐力『文章講話』ほか 二、『新文章講話』]【6】(21))

  • 明らかに引用と分かるものについては「●引用法」という用語をあてる。——●引喩は古典レトリックにはなく近代になってから確立された新しい●文彩だ。しかしながら、歴史は浅いけれども非常に重要な問題を抱え込んでいる●文彩である。——●引喩の語源は「●ことば遊び」を意味する。デュマルセは●引喩についてこんな説明を加えている。「引喩とことば遊びはまたしても●諷喩と関係がある。●諷喩は一つの意味を提示し、別の意味を意味させる。そのことはまさしく●引喩にも大部分のことば遊びにも見られることだ。人は歴史や●寓話や風習をほのめかす。時には言葉で遊ぶ。」(『転義論』)この説明を受ける形でフォンタニエは●引喩を「歴史的」「神話的」「道徳的=精神的」「字義的」の四種に分類している。この分類の妥当性はここでは問わない。いくらでも細目にわたることは可能だが、ただ煩瑣になるだけでものの役に立つとは思えない。問題はデュマルセも指摘している●諷喩との差異だろう。/●引喩と●諷喩はどこがどう違うのだろうか。●諷喩はほのめかす対象を自分で作り上げる。いわぽ自前のほのめかしだ。それに対して●引喩はすでによく知られている対象を利用する。いわば借り物のほのめかしだ。——たとえば、ここに一編の現代詩があるとしよう。そして、その半分ほどが他人の作品からの「借用=引用」だと仮定する。現代の読者はそこに「独創性」を見るだろうか。恐らく、作品の出来映えとは別に「盗用」を云々するにちがいない。現代の読者は借川が作品の半分を占めていれば限度を越えていると感じ、「盗作」と判定する。近代文芸の特徴は作者の個性、作品の独創性を尊重(強調)することであるから、それは当然の結果だろう。/しかしながら、作品の半ばが他人の作品からの借用でもそれを可とする文芸の伝統が、確かにあったのだ。私たちが考えているのは●和歌の「本歌取り」の手法だ。——●パロディ(パスティシュ)も●引喩の一種だが、独立の項目で採り上げることにする。 →「●引用法」「●パロディ」「●諷喩」(「野内辞典」「野内入門」)
  • 要するに、●地口や●パロディと同じく「ほのめかし」を武器とする、旧情報依存型の言葉の工夫にほかならない。([野内入門 第二部 修辞的説得 第4章 提喩系列の文彩と換喩系列の文彩 1 提喩系列の文彩(類似性を原理とする)])
  • 「ほのめかす」という点で●引喩は「あることを話題にしながら、実は別のあることをそれとなく諷している」●諷喩と微妙な関係に立つ。この両者の違いはなんだろうか。それは「ほのめかされる対象」の違いである。●諷喩はほのめかす対象を自分で作り上げる。いわば自前のほのめかしだ。それに対して●引喩はよく知られた既存の対象を利用する。いわば借り物のほのめかしだ。(「日本語修辞辞典」)
  • 地口やパロディーも引喩の→種である。(「日本語文例集」【レトリック小辞典】)
  • 同じくほのめかす技法である《●諷喩》との関係で言えば、《●諷喩》が自ら作り出したその言語表現自体をヒントにして他の何かを連想させようとするのに対して、この《●引喩》は、例えば秋刀魚(さんま)が不漁だと述べた新聞記事で「秋刀魚高いか小さいか」と書き、ひそかに借用した先行表現、この例では佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』の中にある「秋刀魚苦いか鹽(しょ)つぱいか」という文句をほのめかすところに主眼がある。すなわち、両者には、伝達したい内容をほのめかすか、趣向をほのめかすかという、表現機構上の違いがある。《●本歌取り》もその一つ。引用という手段を比喩的な表現構造と見なしての名づけであり、《●隠引法》や《●暗示引用》から《●パロディー》などまで含めて広くとらえる場合もある。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • ●パロディで他人の言い回しを使用するのも●引喩の一種といえる。(「別冊宝島レトリックの本」)
  • 本歌取りはその一例。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[レトリック三〇早見表])
  • おわかりのように、●引喩が諧謔(かいぎやく)と笑いに傾けばパロディーに急接近します。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[意味のレトリック 引用で語る 構成のレトリック2])
  • allusionはラテン語のとalludo(戯れる)に由来する。——この定義の外延はひどく曖昧であって、〈アイロニー〉〈パロディ〉〈パスティーシュ〉〈ミーメーシス〉〈サーカズム〉など多様な文彩の形態がここに引き寄せられてしまう。(「新修辞学」)
  • ●引用であることを明確に示したものを「●引用法」と呼び,それと断らずに自分の文章の中に組みこんだものを「●隠引法」と呼んで,両者を区別する場あい(五十嵐前掲書)もある。(「比喩表現の理論と分類」[[第1部 比喩論 第1編 比喩の関する基礎的考察]][第2章 比喩法の種類]【第1節 修辞学上の各種の比喩法】〔第7段 引喩〕)
  • ●引用であることを明言すれば●直喩的になり,いわゆる●隠引法のうち,文中に組みこまれたものは●隠喩的,独立して置かれたものは●諷喩的,というように,その引き方によって性質が違う。そして,●引用の手つづき以外に言語表現形式上の特色がないので,●直喩・●隠喩・●諷喩とは別に,それらと並ぶ比喩法の一種として立てる必然性は稀薄である。(「比喩表現の理論と分類」[[第1部 比喩論 第1編 比喩の関する基礎的考察]][第2章 比喩法の種類]【第2節 分類上の問題点】〔第5段 引喩の独立性〕)
  • 佐藤信夫の『レトリック認識』(講談社学術文庫)によれば、もとは、坪内逍遙が中国語から流用した誤訳からきているという。(「ミステリを書く!10のステップ」[付録二 隠喩(アリュージョン)講義])

出典を明記する引用は、引用・引喩 (quotation)という。

Examples in the literature
  • 「発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶をとられて堪るものか。」(夏目漱石「坊っちゃん」)は、「朝顔に釣瓶とられて囉(も)らい水」という加賀千代の「千代尼句集」にある一句を連想させる。(「体系」6章(抄))
  • 【例一】古典の例で言えば、「羽をならべ枝をかはさむと契らせ給ひしに」という『源氏物語』の「桐壷」の巻の一節は、白居易の『長恨歌』の「句を下敷きにして、帝と桐壷の更衣との関係を、玄宗皇帝と楊貴妃との関係を背景にして描きだした。/【例二】「路傍のむくげは馬に喰はれけり」という芭蕉の句も、「僅花一朝の夢」を頭においての作という。/【例三】「鬼貫は夜ぢふたらひを持ちまはり」という川柳も、「行水の捨てどころなき虫の声」という句作のあること、および、それが上島鬼貫の詠んだ句であることを読み手が知っていて、はじめて鑑賞できる作品である。/【例四】読者の常識は時代とともに移るため、作品が古くなれば次第に通じにくくなる。朝日新聞一九九二年一〇月一七日夕刊のコラム「素粒子」に、「テレビに竹下派の出入りを看る/疑うらくは是れ暴力団の姿かと/頭(こうべ)を低(た)れて政治を思う」とあり、同じ欄の九三年六月二四日の分には「吾が輩は新生党である。反省はまだない。過去をどう清算したらいいのか頓と見当がつかぬ。」とあり、同じく九四年一月二九日分には「コノゲンキンヲウケテクレ、ドウゾタップリモラッテオクレ、「アリガト」ダケガ政治家ダ」とあり、翌月一七日の同欄には「連立はすべて闇の中である。ある所は武村づたいの道でありある所は小沢に臨む崖である。」とある。これらが効果をあげるには、順に、李白の『静夜思』、夏目漱石の『吾輩は猫である』、干武陵の『勧酒』の井伏鱒二訳、島崎藤村の『夜明け前』に関する読者の文学的教養と、当時の政治情勢に関する記憶が必須条件になる。時が経てば次第に難解になってゆくのは自然である。——【例五】夏目漱石の『坊っちゃん』に、「仕舞に話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、左様ならと、そこそこに帰って来た。」という箇所がある。赤シャツが坊っちゃんをつかまえてあれこれ弁じたてる場面である。その雑談を聞き流しているうちに、話が妙な風向きになってくる。「俳句はやりません」ということばから間髪を入れずに「左様なら」と続くところは、坊っちゃんがあわてて退散する姿が見えるようでおかしい。/「発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。」というその直後の坊っちゃんの呟きも、俳聖の芭蕉と髪結床の親方が肩を並べるあたり、月とすっぽんの両者を括って怪しまない坊っちゃんの人柄を髣髴とさせて笑いを誘う。だからその種の連中と縁のない数学教師の自分が俳句などやるはずがない、という意味の呟きが続くのであるが、そこには「数学の先生が朝顔やに釣瓶(こるべ)をとられて堪るものか」とある。表面だけ読むと、「朝顔や」と「釣瓶をとられて」とがその他の部分とどうつながるかが不明であるだけでなく、「朝顔や」などというものに「釣瓶をとられる」という非論理的な結びつきも見られ、文意の筋が通らない。/文面に引用の痕跡は認められないが、これはむろん、加賀千代の『千代尼句集』にある「朝顔に釣瓶とられて囉らひ水」という●俳句を下敷きにしたものであり、文学的教養のないはずの坊っちゃんにしては手の込んだ表現になっている。この小説は『ほとゝぎす』という●俳句の雑誌に発表したという事情もあろうが、特に●俳句をたしなまない一般読者にもその一句はよく知られていたので、裏にその句をふまえたこの表現は広く読者を楽しませてきた。現在では少し読者を選ぶようになっているように思われる。/【例六】小沼丹の随筆『地蔵さん』は、「どこかのちっぽけな祠(ほこら)から、石の地蔵さんをこっそり失敬して来ようかと考えた」話で始まる。「地蔵さんの首を机の上に載せておいて、丸い頭でも撫でていれば、名案が浮ばぬものでもあるまい、と思った」らしく、地蔵の首だけ頂戴してやろうという気になったこともあるが、結局「面倒臭くなっ」て、実際には「実行するまでには至らなかった」という。/その後、今度は「家の近くの五日市街道の道傍」に立っている石の道標を「失敬してやろうと思い立った」が、これは重くて「とても」一人や二人で動かせるものではない」し、仮に「首尾よく頂戴して来ても、我家の狭い庭に置いたら忽ち衆人の見る所となって穏かでない」と考え、「念のため、散歩がてら下検分したけれども、残念ながら見合せることにした」としぶしぶ断念する。/そして、次に、「石には、右たなし、左こがねゐ、と彫ってあって天明年間に建てられたものである」とその道標について説明し、「僕は蕪村を想い出して、些か風流な気持ちになって帰って来た」と書いたあと、「蕪村を想い出したのは、一つには散歩の途中、小川の傍に野茨が咲いているのを見たからだろう」と展開する。/この部分にいわゆる引用という形式こそ見あたらないものの、作者が連想しながら引用しなかったある一つの句が、読者との暗黙の了解となることを見込んで、この文章が展開していることは否定できない。道標と蕪村とがどうつながり、それと野茨とがどう結びつくのか、実際に書かれた文章だけを見ているかぎり、そういう文意の流れが納得できないからである。そういう点と点とが連絡し線となって展開するためには、読者の積極的な参加が必要となる。/あやうく盗難の被害を免れたあの石の道しるべに刻まれた文字から、作者はまず、それが「天明年間に建てられたものである」と知る。そこから天明三年の暮れに世を去った与謝蕪村を思い出したかもしれない。「天明」からただちに「蕪村」と特定した背後には、この作家の日ごろの嗜好や教養などの下地が働いているにちがいないが、なぜ「蕪村」かと内省し、みずから連想の跡を振り返りつつ、「散歩の途中、小川の傍に野茨が咲いているのを見たからだろう」と記しただけで改行し、「野茨」と「蕪村」との関連を読者にゆだねたまま話題を転じてしまう。/作者が前提とした一句が思い浮かばず、頭のなかで両者の結びつかない読者は片づかない気持ちのまま読み進めるほかはない。一方、「花いばら故郷の路に似たるかな」という蕪村の句が頭をよぎり、なつかしい気分を誘われる読者もあるかもしれない。蕪村で茨とくれば、「愁ぴつつ岡にのぼれば花いばら」の句が頭にひらめく読者はさらに多いのではあるまいか。/随筆はそのあと、「白い襯衣(シャツ)の上に浴衣を着て、古ぼけた茶色の鳥打ち帽を被っている」「背の低い朴訥な感じの爺さん」が、「四角い風呂敷包を紐で肩から吊して、黒足袋を穿き下駄を突掛け」た格好で、道ばたの「ちっぽけな祠」の中に立つ「赤い挺掛(よだれかけ)を掛けた石の地蔵さん」と「一尺と離れない距離で睨めっこ」をしている姿を車の中から見かけた話に移る。/とぼけた書き出しから、「爺さんと祠の四囲だけ時間の流が停止したように見え」る、こういう「ひっそり、ささやかな別世界」をちらりとのぞかせ、「何だか僕自身もその別世界に入りたい誘惑を覚えたが、わざわざ車を停める程酔狂ではない」と結ぶこの一編は、このように、そこに言語化されなかった特に「愁ひつつ」の句の文脈に支えられて読むとき、しっとりとした読後感を形づくるように思われる。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • 「鬼貫(おにつら)は夜ぢふたらひを持ちまわり」という●川柳は、「行水の捨てどころなき虫の声」という句の存在と、それが上島鬼貫の作であることを知っている読者にはおかしい。「爪の先はまっ黒で、これはどうやら物凄い黴菌の棲息地と思われ、間違って煎じて飲んだら」(井上ひさし『モッキンポット師の後始末』)という例も、奥になにかをひそませている。「爪の先」の「物凄い黴菌」からどうして「煎じて飲んだら」などといった発想が生まれるのかという展開の不自然さがヒントになって、「爪の垢を煎じて飲め」という隠し絵が姿をあらわすのだ。(「文章読本笑いのセンス」[第二章 笑いのレトリック]【第九節 パロディー・洒落など】)
  • 「発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶とられて堪るものか」(夏目漱石『坊っちゃん』)(「日本語の文体(中村)」[《文体論の原理》 Ⅲ 文体論の構想――ことばの奥に響く対話―― 2 文体分析の表現的基盤])
  • 文彩でも高等技法であり、近松門左衛門の作品を見るに、これの名手であったことがわかる。/<B>[文例]</B>/<B>近松門左衛門『冥途の飛脚』「新口村の場」</B> 亀屋忠兵衛、槌屋(つちや)の梅川。たつた今捕(と)られたと、北在所に人だかり。ほどなく取手の役人、夫婦を搦め引き来る。孫右衛門は気を失ひ、息も絶ゆるばかりなる。風情(ふぜい)を見れば、梅川が、夫も我も縄目の咎。眼(まなこ)もくらみ泣き沈む。忠兵衛大声あげ。身に罪あれば覚悟の上、殺さるゝは是非もなし。御回向(ごゑかう)頼み奉る。親の嘆きが目にかゝり。未来の障(さは)り、これ一つ。面(つら)を包んでくだされ、お情けなりと泣きければ。腰の手拭(てのごい)引き絞り、めんない千鳥、百千鳥。なくは梅川、川千鳥、水の流れと身の行方(ゆくへ)。恋に沈みし浮名(うきな)のみ、難波に。残し留まりし。/<B>[註]</B>三百両の封印切り(横領)を犯した忠兵衛と梅川が駆け落ちし、大和の新口村で捕われた大詰め。「めんない千鳥」は子供の目隠し遊び詞章からの引き。<U>千鳥鳴く</U>に梅川の「鳴く」を掛けて、その梅川から「かわちどり」を引き出している。「水の流れと身の行方」<U>はしれぬもの</U>という諺より暗示の文句も終わりを飾るにふさわしい。/<B>三田村鳶魚『江戸の珍物』「稽古場の賑い」鞠唄</B> ♪ふとひあなさん薩摩で御座る、島津藩に乱妨させる、ひとり萩さん下手に出やる、公家を一番おだてゝ見たら、御所でさわいで三条でくげて、公家めくにさわへ○させて、淀ではじめて軍に出し、寺のおしやうが大胆ふてき、よしやれ、ひかしやれ、首切らしやるな、敵の逃るはいとはせぬが、敵にむかへばすくはれぬ、まづ〳〵一たん勝ました、/<B>[註]</B>徳川幕府の余命いくぼくもなしと見た島津・毛利二氏との対立を取り込んだ詞。騒動のいきさつを〈音彩〉と〈隠句暗示〉にのせてからかっている。(「文彩百遊」[第八章 多重の文彩技法 [文彩72]隠句暗示(いんくあんじ)……隠句法/暗示引用])
  • たとえば,豊島園が1986年に展開した《プール冷えてます》ⓐの広告。浮輪をしたペンギンが右下に添えられた自っぽいスペースに,このコピーはいささか稚拙な書き文字で大きくレイアウトされている。それは,大衆食堂に掲げられた「ビール冷えてます」のポスターを連想させる。/同じ広告主が展開した,/《若者よ,すべての電車は,としまえんに通じている。》(豊島園,1988年)ⓐ/のコピーは,「すべての道はローマに通ず」という諺を下敷きにしている。(「広告プランニング」[[第Ⅱ部 広告レトリックの実践]][第7章 表現の修辞学Ⅰ:その体系]〔3 思考様式の修辞法〕)
  • 《ゴホンといったらカドカワノベルズ。》(角川書店,1986年)ⓐ/は,《ゴホンといえば龍角散》(龍角散,1953)ⓐ/の暗示引用。咳の「ゴホン」が「ご本」に概き換えられている。ヴィジュアルも暗示引用されているが,特に薬特有の注意書きを利用して,《よく読んでからご使用ください。》というヘッドラインのもと,作家を紹介する,という凝った構成を見せている。/《くしゃみ3回,清酒0.3リットル》(日本酒造組合中央会,1969年)ⓐⓑ/はもちろん,三共が1956年以来使用し続けている馴染みのスローガン《クシャミ3回ルル3錠1》ⓐⓑを踏まえたアピールである。——パロディを効果的に用いたキャンペーンに,帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が展開した公共マナーアピールのシリーズがある。/《帰らざる傘》(1976年)ⓐ/がその1作。マリリン・モンロー主演の映画『帰らざる河』のパロディ(パスティシュ)である。ヘッドラインがその題名のパロディであると同時に,ヴィジュアルもまた作中の最も有名なシーン,女優がギターを抱えて歌うシーンを念頭に,そのギターを傘に置き換えて表現した。この二重の暗示引用を通じて,訴求点への印象を強めたのである。/以ド,チャプリンの《独占者》,スーパーマンの《定期券はっきり。》,フーテンの寅の《この板っきれ邪魔よ。》など,パロディが続いてゆく(河北[1989])。/パロディは,形式それ白体が批評性を発揮する。特にこのキャンペーンの場合,テーマがマナーだけに,真正面から訴えかければ反感を買う恐れがあ惹,有名な,馴染みの映画やマンガのパロディは,単に注目を集めるだけではなく,笑いを誘って共感を強める。そして得られた批判的視点から,自己のマナーに対する態度を相対的に,客観的に見直す成果を挙げるのである。(「レトリック 学びのエクササイズ」)
  • 「―(略=武蔵野の風景)―。君は其時、/山は暮れ野は黄昏の簿かな/の名句を思い出すだろう。」(国木田独歩「武蔵野」)は、与謝蕪村の句を引用。(「体系」7章(抄))
  • 【例】国木田独歩は『武蔵野』という作品の中で、「日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、」と、文を短く切り、それらを句点で区切らず、読点で一時停止しながら畳みかける表現を採用し、そういう張り詰めた強い調子で晩秋の武蔵野を点描した。/そしてさらに、「其時は路をいそぎ玉え、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放(はなっ)ているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落しそうである。突然又た野に出る。」と続け、そういう現在形止めの文末表現を並べることによって、いつの年もその季節のそういう日の夕刻には、といった武蔵野の永遠の姿を描きだしたかのような印象をつくりだす。表現効果を高める工夫はいろいろ見られるが、ここでの注目はその直後の運びである。/「突然又た野に出る。」の一文のあと、独歩は「君は其時、」と書いて行を改め、「山は暮れ野は黄昏(たそがれ)の薄(すすき)かな」と記してまた改行し、「の名句を思い出すだろう。」と展開する。そこには引用符こそ用いていないが、前後を改行してその句だけを一行にして独立させたので、引用範囲は明確に示されている。しかし、その一句の作者名は明記されていない。次行に「名句」と評価してあるので独歩自身の俳句とは考えにくい。事実、これは与謝蕪村の句である。作品『武蔵野』の発表された一九世紀末においては、一般読者にとってそれが蕪村の作であることは常識であったため、単に「名句」とするにとどめて表現のくどさを避けた、という可能性もなくはない。が、芭蕉の「古池や」の句とは違って、少なくとも現代の読者にはそこまで期待できないので、《●隠引法》の例としておく。/問題はこのように挿入した一句の効果である。まず、独歩が伝えようとしている武蔵野の光景が、この適切な一句を得て視覚的に具象化したことがあげられる。さらに重要なのは、そこに微妙に違う二つの映像が重なり、表現に厚みが加わった点であろう。蕪村の句がとらえた自然が、独歩のとらえた武蔵野と通い合うところがいかに大きく深くても、両者は決して同じではない。別の時に、別の場所で、別の個性がとらえた別々の風景なのだ。/独歩の案内で武蔵野散策の文学的な歩を進めてきた読者は、突如として目の前に蕪村の世界が呼び出され、一瞬に消えてゆく思いがする。独歩の世界を近景とし、蕪村の世界を遠景とした二重の映像がひとしきり文学的空間をにぎわす。それはいわば濃淡二枚のタブローが文章に奥行を与える〔多重〕の表現現象である。(「日本語の文体・レトリック辞典」)
  • Milton, <I>Areopagitica</I>の&quot;Methinks I see in my mind a noble and puissant nation rousing herself <I>like a strong man after sleep, and shaking her invincible locka</I>&quot;は<I>Judges</I> xvi 14ff に見えるSamsonの記事に、又Irving, <I>Sketch-book</I>('The Pride. of the Villagel'の&quot;[it spresent master] was… one of those simple Christians that think their misson fulfilled by promoting <I>joy on earth and good-will among mankind</I>&quot;に言及し、<I>&quot;For water is twice is twice blessed</I>. <I>It gives a blessing as it it goes.</I>&quot; (E. E. Slosson, <I>Keeping with Science</I>) には<I>Merch. V.</I> IV. if. の &quot;it is twice blest ; It blesseth him that gives him that takes&quot;) のecho echoを見る如きはその好例である。(「研究社英語学辞典(増訂版)」][p.53][allusion][修)
  • 「歌よみは下手こそよけれ天<B><U>地の動き出だして</U></B>たまるものかは」(宿屋飯盛)/この歌の面白さは強調部分がなにを踏まえた表現なのか分からないとちっとも伝わってこない。しかし、問題の表現から『古今和歌集』序文の次の有名な一節を思い浮かべられる読者はおもわずにんまりとすることだろう。「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をもやはらげ、たけき武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。」/夏目漱石の『坊つちやん』に文学士の「赤シャツ」が主人公に議論をふっかける場面がある。/「仕舞に話をかへて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思つて、俳句はやりません、左様ならと、そこ/\に帰つて来た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が<B><U>朝顔やに釣瓶をとられて</U></B>堪るものか。」/このケースも強調箇所がなにを踏まえた文章か察知できないとちんぷんかんぷんの非文法的な日本語になってしまう。いうまでもなくここには加賀千代女の「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」がほのめかされている。/もう少し下世話な例を挙げることにしよう。/「私の少年時代は大阪の南の郊外だった。その頃はちょっと歩けぽ川があり、池があり、野があった。〔……〕いまはどうだろう。<B><U>ウサギ追いしかの山</U></B>は団地群となり、<B><U>小ブナ釣りしかの川</U></B>は埋立ててコンクリの皮を張られてハイ・ウェイとなった。野、池、草むら、土堤(どて)は消え、陽炎をたてる堆肥も香ばしい匂いをたてる藁塚も消えた。キの字をぼらまいたような晩夏のトンボの乱舞も消えたし、キン、コン、カンと音をたてそうな冬の夜もないのである。空と土と水にひしめき、ざわめいていた、あのおびただしい生はどこへ去ったのだろう。」(開高健『開口一番』)——むかし「三種の神器」という言葉が流行った。その当時はまだ高価で主婦の憧れの的であった電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビのことだ。昭和三〇(一九五五)年頃のことである。この言い方は、歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いだ三つの宝(鏡、剣、曲玉(まがたま))を踏まえている。主婦の願望を代表的な例で示すという発想の出発点は提喩的――種の●提喩――と見てよいが、全体としては「●引喩」的だ。現在の「三種の神器」は一体なんだろうか。/もう少し新しい例をあげれば「花鳥風月」か。花鳥風月といえば風流の対象とされる代表的風物を表す成句だ(この言葉そのものは「種の●提喩」にもとつく表現)。この古めかしい●成句が若者の会社選びの四つの条件を表す言葉に変身する。「花」は<B><U>花</U></B>形産業、「鳥」は<B><U>長</U></B>期休暇(長=鳥は掛けことばで、休暇が多くとれること)、「風」は社<B><U>風</U></B>、「月」は<B><U>月</U></B>給。見られるとおり、●ことば遊びもまじえながらの見事な●引喩だ。この手の●引喩をさらに挙げれば「四天王」「ご三家」「昭和元禄」「今太閤」など(その由来がはっきりしない人は辞書などで確認してほしい)。(「野内辞典」「野内入門」)
  • 一九九九年度のプロ野球ペナント・レースで新人離れの大活躍をした西武ライオンズの松坂大輔投手については、「<B><U>平成の</U></B>怪物」というレッテルが貼られた。「怪物」はすでに見た●隠喩だ。怪物はマイナスのイメージもあるが、この場合は、とてつもない活躍をする新人に対する驚きと感嘆を表明したもので、プラスの評価を表している。問題は「平成の」という限定語だ。なぜ「平成」なのか。当然、先行する「昭和」や「大正」や「明治」といった年号と区別するためだ(この場合はプロ野球が話題なので、「昭和」だけを考慮に入れればよいのだが)。つまり、右の言い回しは「<B><U>昭和の</U></B>怪物」を想定した表現ということになるわけだ。その人は、現野球解説者で元巨人の投手江川卓である。作新学院時代の彼の速球が超高校級であったので、当時のマスコミが称賛を込めて「怪物」という形容を進呈したのだ。怪物第一号だからよけいな限定は必要なかったので、単に「怪物」と呼ばれたわけである。昨今のスポーツ紙を見ればよく分かることだが、スポーツ界ではパンチの効いた大げさな形容が好まれる。九八年度のペナント・レースで横浜ベイスターズの優勝に大車輪の活躍をして貢献したリリーフ・エースの佐々木主浩は、その大柄な体格もあって「大魔人」に祭り上げられた。——関西には「他人丼」というメニューがある。関東の人間である私には最初これがどんな代物か分からず、店の人に聞いたものだ。なんのことはない、鶏肉の代わりに牛肉を使った「親子丼」のことだった。鶏肉とその卵に「親子」の関係を認めるとすれば、牛(肉)と鶏(卵)は確かに「他人」の関係にはちがいない。関西人の洒落っけがよく感じられる。/上野千鶴子によれば、「ゲイの男の子にくっついて歩く女の子のファン層」を「おこげさん」と呼ぶそうだ(『性愛論』)。おカマにくっつくから「おこげさん」というわけなのだが、明らかに「引喩的」命名である。ちなみに「おカマ」は隠喩的命名。禿頭のことを「やかん」と呼ぶように、男性の腎部を「釜」に見立てたものだ。転じて男色、男色者を指すようになった。([野内入門 第二部 修辞的説得 第4章 提喩系列の文彩と換喩系列の文彩 1 提喩系列の文彩(類似性を原理とする)])
  • 例えばここに一首の狂歌がある。/歌よみは下手こそよけれ<B><U>天地</U></B>(あめつち)<B><U>の動き出だして</U></B>たまるものかは (宿屋飯盛)/この歌の面白さが分かりますか。強調部分がなにを踏まえた表現なのか分からないと、この狂歌の面白さはちっともこちらに伝わってこない。問題の表現はなにをほのめかしているのだろうか。『古今集』序文の次のくだりである。/力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをんな)の中をもやはらげ、たけき武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。/この一節を思い浮かべることのできる読者はおもわずにんまりするはずだ。/もう一つ例を挙げよう。/夏目漱石『坊っちゃん』の中に、文学士の「赤シャツ」が主人公に議論をふっかける場面がある。/仕舞に話をかへて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思つて、俳句はやりません、左様ならと、そこそこに帰つて来た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が<B><U>朝顔やに釣瓶をとられて</U></B>堪るものか。/この場合も強調箇所がなにを踏まえた表現か察知できないとちんぷんかんぷんの面妖な日本文になってしまう。改めて指摘するまでもなく――ペダンチックな嫌みな言い方だ!――ここには加賀千代女の「朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらひ水」がほのめかされている。——◎げにげにこれも理(ことわり)なり、思ひぞ出づるわれもまた、その初秋(はつあき)の七日(なぬか)の夜(よ)、二星(じせい)に誓ひし言(こと)の葉(は)にも、<B><U>天に在</U></B>(あ)<B><U>らば願はくは</U></B>、<B><U>比翼</U></B>(ひよく)<B><U>の鳥とならん</U></B>、<B><U>地に在らば願はくは</U></B>、<B><U>連理</U></B>(れんり)<B><U>の枝とならんと</U></B>、誓ひし事を、ひそかに伝へよや、私語(ささめごと)なれども、今洩(も)れ初(そ)むる涙かな。/されども世の中の、されども世の中の、流転生死(るてんしやうじ)の習ひとて、<B><U>その身は馬嵬</U></B>(ばぐわい)<B><U>に留まり魂は</U></B>、<B><U>仙宮に到りつつ</U></B>、<B><U>比翼も友を恋ひ</U></B>、<B><U>ひとり翅</U></B>(つばさ)<B><U>を片敷</U></B>(かたしヘ)<B><U>き</U></B>、<B><U>連理も枝朽</U></B>(えだふ)<B><U>ちて</U></B>、<B><U>たちまち色を変ず</U></B>とも、同じ心の行方ならば、終(つひ)の逢瀬(あふせ)を、頼むぞと語り給へや。 (謡曲「楊貴妃」)/[ノート]文例は、玄宗皇帝の命により楊貴妃の音信を求めて仙界にやって来た方士(神仙の術をおこなう人。道士)が尋ねる人に逢ったが、その身を証すよすがとして帝と密かに交わした言葉を乞うたのに対して楊貴妃が答えた台詞である。【表現】いちいち指摘しないが、台詞は白楽天の「長恨歌」を踏まえている。強調部分は●対照法(●対句)になっている。——◎げにや人の親の心は闇(やみ)にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思ひ白雪(しらゆき)の、道行人(みちゆきびと)に言伝(ことづ)てて、行方(ゆくへ)を何(なに)と尋ぬらん。/聞くやいかに、上(うは)の空(そら)なる風だにも、松に音(おと)する習ひあり。 (謡曲「隅田川」)/[ノート]東国に連れ去られたわが子を尋ねて、物狂いとなった母親が語り出す台詞。「聞くやいかに……」は宮内卿の歌の引用であり(その歌意は下に挙げる)、他にもこの台詞は次の二首を踏まえている。/人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな (藤原兼輔)/〔親の心は闇のように分別をもたないわけではないけれども、子供を思う道には分別を失って迷ってしまうことだ〕/春来れば雁かへるなり白雲の道ゆきぶりに言(こと)やつてまし (凡河内躬恒)/〔春が来たので雁は北の国へ帰るのだ。雲路を行くついでに言づけを頼もうか〕/聞くやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは (宮内卿)/〔詞書に「風に寄す恋」とある。【歌意】一体どんな気持ちであなたはお聞き及びですか。落ち着かない上空の風さえも、「待つ」という松にはその枝を鳴らして訪れる習いがあるということを。【表現】一見すると叙景歌のように見えるが、実は心情を比喩的に表現している。「うはの空なる風」に訪ねて来ない浮気な男を暗示し、「松」に「待つ」、「音す」に「訪」れるを掛け(「聞く」は「音」の縁語)、薄情な男を怨んでいる恋の歌である。しかしこの歌はここでは音信を寄こさない子を怨ずる内容に変わっている〕/見られるとおり、●引喩といい「換骨奪胎の」引用といい、この短い台詞はまさしく「引用の織物」にほかならない。(「日本語修辞辞典」)
  • 【例】盗めども盗めどもわが暮らし楽にならざる。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[レトリック三〇早見表])
  • 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の本歌をまず見ましょう。/足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む/これに対する藤原定家(ふじわらのていか)の新歌はこうです。/ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月影/本歌取りとは、本歌を下敷きにして新しい意味を造形する技法です。山鳥のつがいは夜べつべつに寝るといわれ、ひとり寝の象徴の役割を演じます。霜は月光の比喩。そうすると、定家の歌の意味は、山鳥の寝姿にたとえて、ひとり寝の自分の床に月の光が霜のように散っている、というものです。「山鳥の尾のしだり尾」は、本歌も新歌も同じですが、表現が少し重複しています。しかし、これが秋の夜長の感じをいっそう強めているのかもしれません。——盗用と盗作とは、紙一重です。井上ひさしの『プンとフン』に登場する怪盗ルパンならぬ怪盗「俳助」は、盗んだあとに俳句や和歌を残すことからついたあだ名で、その代表作はつぎのものです。/盗めども盗めども/わが暮し 楽にならざる/じっと手を見る/これは、たしかに「盗ッ人稼業(かぎよう)の生活の苦しさがよく出ている」が、「石川啄木の盗作」です。もとの歌は、こうです。/はたらけど/はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る (『一握の砂』)——啄木を引いたついでに、もうひとつ、筒井康隆の小説『文学部唯野(ただの)教授』の一節を読みましょう。牧口は一年間のフランス留学を二か月で切りあげ、こっそり日本に逃げ帰ってきました。それを知った親友の唯野は、すぐ様子を見に牧口の自宅を訪ねます。/途中から、牧口は聞いていない。うつろな視線を唯野の背後の本棚にさまよわせている。/「おい。どうかしたの」/「友がみな、われよりえらく見ゆる日よ。花を買い来てしたしむ妻もおれにはおらんのだ」/「しっかりしろよ。おい」/もとの啄木の歌はほとんどそのままです。/友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ (『一握の砂』)——借金は、そもそも海のものとも山のものともはっきりしません。借金の山といっておきながら、「借金にどっぷりつかる」ともいうからです。「借金のドロ沼」というときにも、液体の性質が現れます。と思っていると、また、つもりつもった借金が、山のように盛り上がって、崩れれば埋まってしまいかねません。得体(えたい)の知れない借金は、たしかに要注意です。/「海のものとも山のものともわからない」という慣用表現があります。はっきりとした判断ができない、という意味です。引用の「借金は、そもそも海のものとも山のものともはっきりしません」は、この言い回しを踏まえています。これは、●引喩の一種と見なせるでしょう。引用による比喩。この段落は、すべてこの慣用句を下敷きにしています。借金の山の比喩的な性質の揺れを、「海のものとも山のものともわからない」という句の意味とともに聞きとってください。(「日本語のレトリック 文章表現の技法」[意味のレトリック 引用で語る 構成のレトリック2])
  • さだまさしの「関白宣言」は●引喩が二重にも三重にも仕掛けられた曲である。/意外なことだが、この曲は作詞・作曲を担当したさだの証言によれば「君といつまでも」に対するアンサーソングだという。まずここに●引喩が指摘できる。つまり「関白宣言」はラブソソグということになる。ただ両作品には表現方法において大きな違いがみられる。ストレートに、あるいは余りにもあっけらかんと愛を告白している「君といつまでも」に比べると「関白宣言」はかなり屈折していて、手の込んだ作品になっている。しかしながら「君といつまでも」とは別の意味合いで女性に対する思いの丈を開陳した日本には珍しい男のラブソングだとはいえるだろう。この曲は最初は「王手」と題され「関白宣言」は副題だったことからも分かるように「プロポーズ」の歌である。女性の心をつかむために「王手」をかけた歌なのである。/歌い出しと歌の最後とにそのことがよく示されている。「おまえを嫁にもらう前に言っておきたい事がある/かなりきびしい話もするが俺の本音を聴いておけ」「忘れてくれるな俺の愛する女は/愛する女は生涯お前ひとり/忘れてくれるな俺の愛する女は/愛する女は生涯お前ただ一人」この最後の愛の告白にたどり着くまでが長い。建て前と本音を使い分けた韜晦(とうかい)的な表現法が採られているのだ。(「レトリックと認識」)
  • 「中村草田男の『長子』に“降る霜や明治は遠くなりにけり”という句があるが,まさにその感が深い」とすれば前者の例になり,「まさに明治は遠くなりにけりという感が深い」とすれば後者の例になる。また,いわゆる「●本歌取り」はすべて●引喩と言ってよく,古今和歌集の序文をもじった「歌よみは下手こそよけれ天地の動き出してたまるものかは」(宿屋飯盛)や,加賀の千代女の句を利用した「しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから,こいつは大変だと思って,俳句はやりません,さようならと,そこそこに帰って来た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶とられてたまるものか」(夏目漱石『坊ちゃん』)なども●隠引法の例である。なお,この●隠引法をさらに,白楽天の『長恨歌』中の一部を借りた「羽をならべ枝をかはさむと契らせ給ひしに」(『源氏物語』)や,函谷関の故事を引いた「夜をこめてとりの空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」(清少納言)のように,事がらだけを引くものと,前にあげた「明治は遠くなりにけり」の後側のようにことばをも合わせて引くものとに分ける場あい(島村前掲書参照)もある。(「比喩表現の理論と分類」[[第1部 比喩論 第1編 比喩の関する基礎的考察]][第2章 比喩法の種類]【第1節 修辞学上の各種の比喩法】〔第7段 引喩〕)
  • 「酔いどれ船」はラソボーを指す●隠喩として使われたことがあるのであるから、これは当のものが船ではなく人間存在を指示し得るということを示唆する●引喩(allusion)(別種の論理変換)なのである。二つ目の名詞句について言えば、それはただ第一の名詞句との関係でのみ意味をもつものであり、「酔いどれ船」の文学的な背景は、「孤独な大帆船」もまた人間的あまりに人間的なものであるかもしれない、ということをわからせてくれる。すなわち、文全体がとにかくゼロ・レベルにおいて読みとられる得るし、理解できる意味を示し得るということである、たとえその意味に面白味はあまりないとしても。第一の意味についてのまさにこの失望こそが、果してこれほど陳腐でない第二のイゾトピーが存在し得ないものかどうかを、探るきっかけとなるのである。/例えば新聞の見出しのように、この文が一つだけ離れて示されているとしよう。いくら稀薄な文脈でも、海軍の歴史よりも現実の中に第二の意味を探すように促す基盤は、文脈の中にある。そして次に、「酔いどれ船」をランボーという人と連合することによって、これが人格存在に関する話であるという想定が生まれる。かくして不変異体が現われてくる。すなわち「酔いどれ」とか「大きな」とか「孤独な」とかは、共示の点で我々の最終的な選択を決定する指標なのである。(「一般修辞学」[第一部 基礎修辞学 第五章 論理変換 三 削除‐附加]【三・二】)
  • ☆「『鳩翁道話』に、ほととぎす自由自在にきく里は酒屋に三里、豆腐屋に二里という歌がみえますが……」などとするよりも、「まあ、ほととぎすの声をたのしむことができるような静かな場所ですが、なにしろ、酒屋に三里、豆腐屋に二里といった不便さでして……」と言ったほうがすんなりする。

☆「世の中には、肥えたソクラテスもおれば、痩せたブタもいるもので……というせりふは、大河内東大総長の、「肥えたブタより痩せたソクラテスになれ」と言った言葉をふまえて味わいがでてくる。したがって、●隠引法は、本来引用する言葉を相手が知っているものと予定しているわけで、相手をかまわず濫りに人の知らぬものを引いても意味はない。たとえば、宿屋飯盛の狂歌、「歌よみは下手こそよけれ天地の動き出してはたまるものか」の面白味は、和歌は力も入れずして天地を動かすという『古今和歌集』の序を思い浮かべずしては理解し難い。(「修辞学って何だ!?」)

  • ☆(e)The Price of Peace. (Newsweek, 3/26/'79)は、'The Peince of Peace'(キリストのこと)を下敷きにしている。

☆(i)Spy-in-the-sky flap. (Newsweek, 4/23/'79)は、'Pie-in the sky' (空中楼閣のこと)を下敷きにしている。 ☆(j)Salvador : Muder at thr Cathedral. (ibed 5/21-/79)は、'Muder in the Cathedral' (T. S, Eliotの詩劇の名前)といった下敷きがあるだけである。(「くりかえしの文法」[第1章 反復の普遍性])

  • 【報道文】少し古いが、報道の自由に関する有名な事件を挙げてみる。それは一九一八年、大阪で関西記者大会が開かれた時のことである。その様子を、「大阪朝日新聞』が「『白虹(はっこう)日を貫けり』と昔の人が眩いた不吉な兆が黙々として肉叉(注・食器のフォークのこと)を動かしてゐる人々の頭に雷のやうに閃く」と書いた。これが新聞紙法四十一条の「安寧秩序を紊(みだ)すもの」として発売禁止になった。同社は社長を替え、編集局長や長谷川如是閑らの論説陣も辞任して事態の収拾をした。これを「白虹事件」呼んでいるが、この記事には●引喩法が用いられている。白い虹が太陽を貫いてかかっている(白虹)のは不吉の兆とされるが、また「君主に危害が及ぶ兆候」をもさすので、この事態となったわけである。出典は『史記』。時の寺内内閣への批判を強めていた『大阪朝日』への弾圧の口実であった。/【政治家の答弁や発言】さかのぼって一九三四年、鳩山一郎文相が樺太工業汚職事件の収賄容疑で問題になったときに、「全く私は明鏡如止水の心持ちで居りまして」と答弁したことから「明鏡止水」が流行語になったという。「明鏡止水」は、曇りのない鏡と静かな水のように澄んで落ち着いている状態を表す、『荘子』の言葉の●引喩法である。鳩山文相は、噂されるようなことはないと弁明したが、結局辞職した。しかし三年後には、答弁のとおり無罪の判決があった。この後、「明鏡止水」は政治家が身の潔白を弁明するときに用いる常套句になったといわれる。/[文学作品におけるレトリック]【詩・歌詞】▽ほたるの光、窓の雪。書よむ月日、重ねつつ。いつしか年も、すぎの戸を、明けてぞけさは、別れゆく。/「ほたるの光、窓の雪」は、古代中国の晋の車胤がほたるの光で、また孫康が窓の雪の反射で書物を読み、貧乏に負けず勉強した故事の●引喩。「すぎの戸」は、「過ぎ」と「杉」の●掛詞(かけことば)で、二つの意味を持たせている。(※私注:この全文については、「●詩」を参照のこと。)/【エッセー】エッセイは、自由な形式で、自分の体験や見聞や意見、感想など、書きたいことを自由に書いた散文である。小説同様、固有の修辞法はなく、その人独得の考え方や感じ方、表現のあることが命といってよい。それだけに、発想・配置・修辞などレトリックに工夫が要る。/▽ようつにいみじくとも、色好まざらむ男は、いとさう〴〵しく、玉の盃の当なき心地ぞすべき。(吉田兼好『徒然草』三段)。/すべての面ですばらしい人であっても、恋愛の情趣のわからないような男は大変ものたりなく、立派なさかずきに底がないような気がするにちがいない。「玉の盃の当(そこ)なき」は、肝心な点が欠けていることの●隠喩で、『文選』からの●引喩。「心地ぞすべき」は係り結び。/▽たった一日のうちに、三回も、「ジュをジと発音する」例に出会ったわけで、こんなことはじつに稀です。(井上ひさし『にほん語観察ノート』)「こんなことはじつに稀(まれ)です」は、宮沢賢治の童話「革トランク」にくり返し現れるフレーズで、●引喩。著者独自の隠し味である。(※私注:この全文については、「●隠喩」を参照のこと。)/[[第3章 表現のレトリック]][文体のレトリック]【文章は書き手のすがた映し出す鏡】まず、次の①②の文章を検討してみよう。/①なつやすみにかぞくでいなかにいきました。おじいちゃんやおばあちゃんにもあえたしいっぱいあそんでとてもたのしかったです。/②旧盆に、家族で茨城の田舎に行った。久々の家族旅行でもあり、それ自体も楽しいものだったが、祖父と祖母がバス停まで迎えに来てくれたのはうれしかった。なんだか小さくなったようだが、二人とも満面に笑みを浮かべていた。滞在中は「小鮒釣りしかの川」で、川遊びなどを楽しんだ。/①と②はどう違うのだろうか。どちらも発想としては夏の思い出であり、配置もほぼ同じである。しかし、①は小学生が、②は少なくとも中学高学年以上の人物が書いたであろうことが、文体、漢字や読点の使い方、材料(情報)・語彙の豊富さや●引喩の使用から想像できる。/このように、文章は知識・情報・意見・主張の重要な伝達手段であるけれども、同時に書き手の経歴・性格・人柄・教養などを映し出しもする鏡である。入学・就職試験で文章題が課せられるのは、このことによる。/[装いと飾りのレトリック]【日常目にする文章の装い・飾りに注意を払う】次は、新聞のコラムであるが、とくに修辞に関心をもって読まなければ、その技術には気づかずに読み過ごしてしまう。しかし馬注意して目を通すと、いくつもの装いと飾りが見つかる。これらの相乗効果で、わかりやすく印象深い文章となっているのである。//小泉劇場の女刺客が話題を呼んでいる。タレントや女優に頼らず、男顔負けの学歴やキャリアを持った女性を選んだのは一歩前進か。官僚、学者、弁護士、キャスターというのは、馴染みがあるが、公認会計士、外資系エコノミストというのは目新しい。(略)「女性の分極化が進行し、女女格差は学歴によって正当化される」とは、左翼系フェミニストの言葉だが、今や学歴プラス資格、キャリア、外見の時代であり、思想的には親米保守といったところか。かつての(略)マドンナ旋風と違い、女性有権者がさめているのは、階層格差を見せ付けられているからではないか。弱肉強食社会をよしとする改革は、男女格差ならぬ女女格差をさらに拡大させるだろう。女だから女の味方という牧歌的な時代は終わった。(『東京新聞』「大波小波」二〇〇五年九月。衆議院選挙の候補者についての話題)//この文章には、「女刺客」「マドンナ旋風」「弱肉強食社会」などの●隠喩が用いられている。「男顔負けの学歴や…」は●直喩、「…は一歩前進か」「…といったところか」「…ているからではないか」などは●修辞的疑問、「『女性の分極化が…』とは」は、●引喩法である。修辞の観点から、日頃目にする文章を読み直してみよう。(※私注:引用された『東京新聞』の文中にある「(略)」は、書籍のママ。)/[[付録/用語解説]][2 文・文章の修辞]【引喩(allusion)】昔の人の言葉や故事・諺や有名な詩歌や文章などを引用して、自分の言いたいことを効果的に表現したり強調したりする表現技法である。これには、二種類ある。「孔子様は四十にして惑わずというが、われわれは四十にして最も迷うだね」とか、「自由は、不断の努力によって保持し、濫用してはならないと憲法はいっているが、護憲と言いつつ、&times;&times;などは表現の自由の濫用である」とか、「古人曰く、李下に冠を正さず」の類で、●<B>引用法</B>である。もう一つは「旅は道連れ、仲良く行きましょう」とか「彼は何を言われても、馬耳東風で平気だよ」「出る杭は打たれるだ、あまり出しゃばらないほうがいい」のように文中にとけ込ませた●<B>隠引法</B>である。(「大学生のためのレトリック入門」[[第1章 レトリックの基礎知識]][日常生活の中のレトリック])
  • 右のホオを打たれたら、左のホオも出すといった態度では、今のサラリーマンは出世はできない。/急がば回れということもある。すぐに結論を出さないで、まず必要な情報を集めて、冷静に判断をすることがたいせつだ。/結果よければすべてよしというとおり、とにかく成功しなければ話にならない。(「文章の書き方百科」[第三部 効果的な書き方 〔四〕修辞法 3 現代の修辞法の特色]【1 文の表現の修辞法】〔(8)引用法(allusion)〕)
  • 「<U>とらぬ狸の皮算用</U>的な経済政策」は●諺から,a <I>dog-in-the-manger</I> policy(意地悪政策)はイソップ物語から引用したもの.(「現代言語学辞典」)
  • 例えば、“Space, the final frontier.”(「最後に残された未開拓領域、宇宙」)というTVシリーズ『スター・トレック』の台詞は、アポロ計画を提唱したケネディ大統領が宇宙開発の重要性を米国人のフロンティア精神に引っかけて語った言葉を引用したものであった。(「レトリック論を学ぶ人のために」[Ⅲ コミュニケーションとレトリック 第5章 コミュニケーション論からのアプローチ(鈴木健) 4 公的なコミュニケーションとレトリック])
  • 夏目漱石『坊つちやん』からの文章で、「赤シャツ」とあだ名された文学士が主人公に議論をふっかける場面である。「仕舞に話をかへて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思つて、俳句はやりません、左様ならと、そこそこに帰つて来た。発句は芭蕉か髪結床の親方のやるもんだ。数学の先生が<B><U>朝顔やに釣瓶をとられて堪る</U></B>ものか。」(ここには加賀千代女の有名な作品「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」がほのめかされている)(「うまい!日本語を書く12の技術」[附録 〈文彩小辞典〉]【引喩(暗示的言及)】)
  • 「吾輩は気ままな猫である」はペットの出入り窓業者のCMです。(「新版 書く技術」[第5章 達意の文章])
  • ポール・ヴァレリーは「言葉遣いと荷物は軽いほどよい(Entre deux mots, it Taut choisir le moindre.)」と言った〔Tel Quel I, Litt&eacute;rature.「災難と荷物は軽いほどよい(Entre deux maux, it faut choisir le moindre.)」という●ことわざをもじったもの。原著はpr&eacute;fere le moindreとなっていたので訂正した〕が、これは●地口を●引喩(allusion)に接合したわけだ。(「レトリック(クセジュ833)」[第二章 文彩]【Ⅰ 語の文彩――「翻訳者は裏切り者」】)
  • 「一冊の手帳紛失を隠蔽するために、二十九冊の手帳を盗んだ」という動機が解明されるところで、わざわざ作者はチェスタトンの名を書きつける必要はないし、また出典を明記する義務もない。「賢い人間なら木の葉をどこに隠すか」という命題は、いわば知っていて当然の常識として暗示引用されているのだ。読者がそれを知っていれば「こういう応用の手があったのか」と楽しみが増えるし、また知らなくてもさしつかえない処理はほどこされている。(「ミステリを書く!10のステップ」[付録二 隠喩(アリュージョン)講義])
  • <U>愚公山を移す――誠をもって倦まずたゆまずにやれば、なにごとも成し得ることができる、といいます。</U>/「転職」はまさに人生の転機。迷い、惑いが胸の中でうずまくのは当然です。しかし、自分の信念を持って転職にあたれば、必ずや自分を生かせる職が見つかり、将来の成功者と成り得ます。長期的な展望を持ち、大きな飛躍を願う――<U>(「自家製文章読本」[透明文章の怪]【三】)
Examples in the corpus
タグ#
33
2019/09/02 18:06 
2019/09/02 18:41 
2019/09/20 16:24 
2019/09/02 18:39 
2019/08/23 15:52 
2019/09/20 16:24 
2019/06/18 14:13 
2019/09/20 16:25 
2019/09/20 16:26 
2019/07/04 18:48 
2019/09/02 14:33 
2019/09/03 18:06 
2019/02/05 17:46 
2019/09/20 16:30 
2019/09/20 16:32 
2019/06/10 15:01 
2019/06/06 15:46 
2019/06/06 15:44 
2019/09/23 15:07 
2019/09/20 16:32 
2019/05/30 15:37 
2019/09/20 16:33 
2019/01/17 16:29 
2020/09/02 15:14 
2020/09/02 15:16 
2019/09/20 16:35 
2019/09/20 16:36 
2019/05/04 18:59 
2019/09/02 18:37 
2019/09/20 16:38 
2019/07/13 16:35 
2019/06/30 15:54 
2019/09/23 18:56 
最終更新: 2021/04/01 23:56